■うぐいす張りの廊下といえば、何を思い出されるでしょうか。
敵の侵入を速やかに察知するべく、重力がかかる度(人が歩く
度)に「キコキコ」と床板が鳴る仕組みが施された床を「うぐ
いす張り」と呼びます。単に古くなって床鳴りがするのとは
わけが違うわけです。なぜ床が鳴るのか。それは、釘とかすが
いが擦れて音がするように施工されているからだそうです。
というわけで、今回はうぐいす張りの廊下でも有名な二条城の
お話しを少し。
それではどうぞおたのしみください。
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■文化財マネジャー受講記録(7)
引き続き、第7回目の受講記録備忘録である。
今回は、外へ出ての現場実習的な内容。
何をしたかと言うと、二条城にて城内見学。まあ、これだけな
ら、文化財マネジャー育成講座でなくとも誰でも入れる。城内
見学に加えて、障壁画や襖絵などを復元保存しておられる方
(絵師)による障壁画関連の説明。さらに原画を間近で見せて
いただいたり、現在進行中の復元画を見せていただいたり、と
いったレアな経験をさせて頂いた。
さらに、南西にある物見櫓の内部に入れていただいたり、西門
の裏手を見せていただいたりと、一般客は進入できない場所を
案内していただき、これまたレアな体験をしたわけである。
ご存知の通り、二条城は1603年に徳川家康が築城を命令して、
1626年3代目将軍家光の時に出来上がったお城である。なので、
今からザッと400年程前の建物。勿論築城当時の姿がそのま
ま残っているわけではなく、現存しているのは二の丸御殿と呼
ばれる部分が主。築城当時は北西角に5重の天守閣があったそ
うだが、1750年雷火により消失。その後、場所を移動して再び
5重の天守閣を造るも、消失。といった具合で、自然災害や火
事により、色々とカタチの変遷はある。天守閣を備えた二条城
の姿は、絵で見ることしか出来ないのが残念である。
二条城は私の実家から自転車で5分程度の距離なので、個人的
には近すぎてその存在は全く価値を持っていなかった。なので
初めて入城したのは、随分大きくなってからのことだった記憶
がある。しかし実際は、今や建物の一部は国宝であり、障壁画
の一部は重要文化財であり、二の丸庭園は名勝であり、全体は
ユネスコの世界遺産である。それだけ価値のある建造物だった
みたいだ。
歴史に造詣が深いわけではないが、この場で大政奉還がされ、
歴史の大きな変換点になったことを考えると、やはり感慨深い
ものがある。その場は、二の丸御殿内の大広間。
因みに広間的な空間は大きく3つ。大広間。黒書院。白書院。
それぞれの空間の性格は、大広間が各藩を迎える場。大政奉還
が行なわれた場。黒書院は、外様ではない近しい藩(親藩や譜
代大名)と接見した場。白書院が、家族で過ごした場。
奥に行くほど、家庭的というか威厳めいた装飾は排除され、色
使いも優しくなっていく。各空間から見える庭(二の丸庭園)
は同じ庭なのだが、各空間が有する性格によって見え方が違う。
大広間から見える庭石は垂直性が強く、トゲトゲしく険しい感
じ。片や黒書院から見える庭石は横長の穏やかな表情を見せる。
庭から見ると、大広間と黒書院の配置は90度振っている。な
ので、見え方/見せ方が異なるわけである。外様に対しては厳
しく。親藩に対しては優しく。それを空間や庭も利用して創り
こんでいるという事実は見逃せない。空間が人々の心理に与え
る影響は、少なからずある。それを熟知していたと思わざるを
得ない。恐るべし徳川であり、流石徳川である。
そして本当に恐るべしなのは、それらを設計した棟梁であり庭
師であり絵師なのだと思った。
絵師は全て狩野派の絵師。障壁画や襖絵はその数千点を軽く超
えている。現在の絵師一人が1点復元するのに平均半年掛かる
ことを考えると、一体何百人掛かりで描いたのか想像もつかな
い。因みに、現代の復元絵師も日展などで賞を受賞する「つわ
もの」の方達ばかりである。滅茶苦茶絵が上手い方達が携わっ
ておられる。当然と言えば当然なのだが・・。
当時は絵師に限らず、欄間などの彫り物師も居ただろうし、襖
の取っ手や釘隠しなどを作った金物師も居ただろう。その全て
が、現代にも通用するものであるばかりか、現代では再現不可
能かもしれないことを思うと、やはり大切に残していかなけれ
ばならないものが確かに存在すると思った次第である。
次回も現場実習。だが、かなり身近というかなんというか、町
家を測量したり、図面に起こしたりという内容。体を使うって
やつである。詳しくは、またコラムで紹介したい。
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■編集後記
いつもは外からしか見ることの出来ない物見櫓。そこに入らせ
ていただいたのは、結構貴重な体験でした。物見櫓内から見え
る風景は、現代ですのでビルや学校が建ち並ぶ感じなのですが、
400年前の風景は、きっと眼下に軒や屋根並を望む風景だっ
たのでしょう。今や、眼下どころか同一目線や見上げる建物す
らありました。既に「物見」の役割は果たさないという感じで
す。
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変わらない風景から
変わり行く風景を見る。
良い変わり方を目指したい。
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