■この歳になりますと、人から教えを乞うことは少なくなります。
まあ実際は、仕事を通して色々な人から色々と教えて貰ってい
るのかもしれませんが。
でも、授業や講義的に机に座って、というのは非日常の世界だ
と言えます。そんな非日常を綴るシリーズを今回もお届けしま
す。さて、どんな世界が見えてきたのか?
それではどうぞおたのしみください。
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■文化財マネジャー受講記録(4)
第4回目の受講記録備忘録である。
今回は、午前中に「近代洋風建築」の講義。午後からは、昨年
6月に重要文化財の指定を受けた、杉本家(四条烏丸付近)の
杉本節子氏(現在、料理研究家)から、杉本家についての概要
を教わった後、現地にて講義を受けた。この杉本家とは、京町
家である。
この講義で初めての課外授業だったので、それは単純に印象に
残った。そして考えさせられた。
呉服屋として順調に栄えてきた杉本家。その始まりは1743年。
なので、今からザッと268年前。そして、現杉本家本宅が構築さ
れたのが、1870年(明治3年)。今から約140年前である。
140年前の町家。古い。間違いなく古い。
なので、文化財指定を受けるのも、ごもっとも。と単純に思っ
てしまう。
しかし、現実はそう単純ではない。
今の当主で9代目の杉本家。家業は7代目まで、当家当主がい
わゆる社長として事業を切盛りしてきた。
そして8代目。いわゆる養子の方が当主となる。事業は、杉本
家で働いてこられた方の手に渡る。この本宅も、事業会社の名
義。
この段になって、本宅を潰して事業用地にするという会社。い
や、先祖代々受け継いできた本宅は何が何でも守るという杉本
家。
しかし実際には、杉本家という個人が買い戻せるほどの規模/
金額ではなく、守る手立ては殆どなし。
そこで、守らんがために奔走し、見出したのが「文化財」の指
定を受けるという手法。
まずは、京都市の有形文化財に登録をする。これが1990年。今
から約20年前のこと。
さらに財団法人を立上げ、維持・修繕費を募る。これが、1992
年。
そして漸く、昨年に国から重要文化財の指定を受けるに至った。
恐らく、外からは分からない苦悩/焦り/選択の連続だったと
思う。
残す為の手立てとはいえ、最終的にそこに「住む」ことは出来
なくなる。のである。
そこには先祖代々の思い出/記憶が刻まれている。言ってみれ
ば、凄く私的な空間である。お寺や神社ではなく、京町家とい
う住宅なのだから。
永久凍結という残し方。それが重要文化財である。私的空間に
はあまり向かない気もしないではない。この杉本家で生まれ育
った方が、現に生きているから、かもしれない。そこで普通に
生活していた方が、そこで普通に生活できない。という事実。
いや、感傷的過ぎるのかもしれない。現実の社会/世の中は、
もっと厳しいことがアチラコチラで起きているのかもしれない。
残せただけでも本望だろうし、万々歳なのかもしれない。
文化財という考え方を否定してるわけでは全くない。栄枯盛衰
の世の中にあって、貴重な建物を残す最終手立ては、この手法
しかないのかもしれない。
ただ、現実問題として、全ての町家が貴重だからといって文化
財指定されるわけではない。なので、結局は市民/住民自らの
手で、頭で、残していくのかどうかは決定される。
経済優先なら壊されるだろう。文化優先なら残されるだろう。
何が大切か。それは、当事者の尺度によって変わる。
そして、その尺度は当事者にしか分からない。
設計者としてすべきこと。それは、単に残すことでも、単に新
たに建てることでもなく、その尺度を真に理解すること。そし
て、理解したうえで自分の考えを持つこと。なのだと思った。
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■編集後記
先日の京都新聞に「京町家の憂鬱」という記事が載っていまし
た。町家に暮らして数十年の方が書かれた記事。京町家は傍か
ら見れば、味があるのかもしれないが、冬は隙間風だらけで寒
いし、夏はクーラーの効きも悪くで暑い。昼間は暗いし、便所
は外にあって不便。台所と洗濯場の距離も遠くて動線が長い。
ああ、憂鬱。というもの。実際住んでみると、不都合が多いと
いう事実を述べられていました。
でも愛着が湧く、とか。木の温もりは他に替えがたい、とか。
全く何のフォローもなく、記事はプツンと終わっていました。
読んでるこっちが憂鬱でした。
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経済力があれば文化も残る、ハズ。
でも実際は、その真逆。な、感じ。のニッポン。
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