■前回に引き続き、今回も数字の羅列です。
ただ、単位は「年」に変わりますが・・。
最近日本の歴史が世間でも注目を集めております。
まあ、それと今回のコラムとは直接関係はしていないのですが
結果として日本の歴史に触れる内容となりました。
それではどうぞおたのしみください。
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■コンパクトシティ(2)
前回の続き。
前回は主に京都市と東京23区の面積・人口に関する観点から
都市の現状・人口の推移について述べた。
なぜ、そのようなコラムを書いたかは、今回を含めて今後徐々
に明らかになる/していく予定なので、とりあえず書き進める。
なので、目的は気にせず読み進めていただければ幸いである。
・・・
先日講演会に行った内藤廣さんの話しで、「京都はとても人が
住むような場所ではない。夏は暑く、冬は寒いのに無理して人
が住んでいる」という内容を少し述べられた。
確かにその通りだと思う。異様に暑く、異常に寒い土地である。
が、人は住んでいる。
奈良から京都へ遷都した理由を、建築史家である川添登氏の仮
説を基に披露もされていた。当時の日本にとっての脅威だった
中国を迎え撃つべく、桓武天皇が遷都を決意したという内容。
真偽はともかくとして、遷都されたのは事実である。実際には
平城京から長岡京に遷都し、平安京に遷都したのであるが、長
岡京時代は10年間と極端に短かったので、あまりクローズア
ップされることがない。今の長岡京市である。京都市の南部に
位置する。
平安京から次の都市/幕府は鎌倉に移る。1192創ろう鎌倉
幕府。である。794鶯平安京。なので、平安京は約400年
続いた。
まさに今の首都東京の歴史/経過時間とほぼ同じである。
そろそろ遷都か?と思うのは単純であるが。
約150年続いた鎌倉幕府の次は室町幕府。足利時代でもある。
ここで再び京都に幕府が置かれる。当事務所のほんの近くに
「花の御所」が築かれた。事務所は室町通りに面している。
信長が足利政権を奪うまで約235年。京都は再び日本の中心
として歴史を重ねはじめる。幕府目線で京都が中心でなかった
のは約150年間である。
そして信長による安土時代。が、本の数年。関ヶ原の戦いがあ
った1600年までの間に戦乱の世の中となる。信長・秀吉・
家康の時代である。信長が滋賀の安土に城を築いたので、安土
時代。秀吉が伏見桃山に城を築いたので、桃山時代。しかし、
なおも日本の中心に京都が都としてありつづけた。
そしていよいよ、1603年。徳川家による江戸幕府の幕開け。
やはりそれから400年が経つ。
400年というのは一つの節目か?と思ってしまうほどに、歴
史は動く。
ただ、幕末に至るまで、京都は都としてある。
なので京都は歴史都市として1000年の歩みを重ねてきた。
幕末からこちらは、新撰組や龍馬などが活躍した時代を経て、
明治維新。大正。昭和。平成。となる。
滅茶苦茶ザックリではあるが、日本の歴史はこのような流れで
ある。
要約すると、794年平安京遷都以降、幕府は鎌倉に一時期(
約150年間)移ったものの、都として人は住み続けた。しか
し1603年以降の日本政治の中心は江戸・東京である。なの
で、人口統計で明確となっている大正時代の人口は、東京が京
都の7倍というアドバンテージを持ってスタートしている。
・・・
漸く現在以降を考える基盤ができた。続きは次回。
え?まだ続くの?と思われた貴方。正解です!
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■編集後記
あまりにも杜撰な文章で、申し訳ない気持ちで一杯ですが
本題への序章ですので、アバウトでザックリです。
特に歴史紹介がメインでもありませんので、お許しください。
歴史ファンからすれば、もっと言いたいこと/書きたいこと
があるかもしれませんが、残念ながら歴史ファンではあり
ませんので、時代の羅列となりました。
恐らく次回はメインのお話を出来るかと思いますので
もう暫くお付き合いください。
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