空間工房 一級建築事務所

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10.07.19 Monday

設計者にとっての設計とは?

■前回コラムの編集後記で、「次回はもう少し身近な題材で

 話を進めたい」というニュアンスのことを書きました。

 んが、今回は身近なような違うような・・・そんな内容に

 なってしまいます。

 ですので、今回は(も?)読み飛ばすという一つの選択肢も

 ございます。

 でも読めば結構面白いかもですよ~。いや、わかりませんが。

 それではどうぞおたのしみください。
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■設計者にとっての設計とは?

 今回は、いわゆる建築家や設計者にとっての設計とは何かを交
 えて、ある一つの目的を考察してみたい。

 ある一つの目的は追々明らかにする。

 私達は、設計事務所を運営する設計者である。現在は主に住宅
 や店舗の設計を手掛けている。

 「設計」と一言で言っても、意匠や構造・設備などといった色
 々な分野が存在することは、以前のコラムでも触れた通りであ
 る。

 要するに一言では説明が出来ないのだが、最終的にはお施主様
 のご要望を汲み取り、発案し、法規制やご予算などに照らし合
 わせて図面化し、見積りを査定し、着工と共に現場監理を行い、
 色や質感を確認し、最終的な空間へと誘う役割を主に担う。そ
 こにどんな空間が出現するか、どんな仕掛けが施されていて、
 どのような効果をもたらすのか。それは望まれていることか、
 それはご予算内で納められることか、光はどこから射し、風は
 どう抜けるのか。そこに新たな空間体験が待っているのか、新
 たな空間概念を持っているのか。などなど多角的な側面から一
 つの実体(空間)を検証し、収斂していくことが設計であると
 言えるかもしれない。その他諸々付け加えるべき事項は多々あ
 るだろうが、概ねそのようなイメージである。

 住宅や店舗規模の場合、相対する相手は主にお施主様やお店の
 スタッフ。納得されない事項は実現は勿論出来ない。これが、
 公共建築ともなれば、その相手の数は一気に膨れ上がり、意見
 の集約なり整理を一つのカタチに落とし込んでいくことは、か
 なり困難を極めることが容易に想像出来る。

 しかし、そういった作業を通過しない限り、一つの空間は出来
 上がらない。なぜなら、建築とは設計者の私有物ではなく、時
 にお施主様の、そして時に公共/社会の財産であるからである。

 10人の設計者が居れば、10通りの回答が出てくる。しかし、
 だからといって一つの敷地に10軒を建てることはなく、最も
 優れた1軒だけが、この世に実体を伴って出現する。

 ここで、最も優れた1軒を抽出するのが大変なことも容易に想
 像がつく。同じ設計事務所の内部でさえ、たった1案を考える
 /提案するのに、その後ろには何十もの廃案が散らばっている
 という現実を知っているので。さらにそこからの抽出は、W杯
 の優勝国を決めるが如く、熱を帯びるのだと思う。

 お施主様の望む空間もまた、10人居れば10通りの理想があ
 る。その意図に共感し、そのイメージを具現化していくのも設
 計者の役割であることは間違いない。設計者がどんな理想や理
 念を持っていようが、そこに住みたい/そこを利用したいと思
 わない限り、全てはアンビルドと化していく。しかし、何の理
 想や理念を持たず、全てお施主様任せ的な創り方は、あまり好
 ましくないように思える。これは設計者のエゴにも繋がるので、
 非常に危険な発言であることは自覚しているのだが、無計画に
 無自覚に街が繁殖していくことがあまり好ましいとは思わない
 という意味である。

 しかし、その設計者の理想・理念が本当に正しいのか。ただの
 嗜好レベルではないのか。といったポイントを判断するのは、
 非常に難しい。というか、無理かもしれない。

 ある意味大御所/巨匠になれば、政治的な発言力も持ち合わさ
 れ、その建築家の思惑/思想/理念は実を結ぶ可能性が高くな
 るかもしれない。これは、巨匠になる力量を備えているからこ
 そ可能なのであって、誰もいきなり巨匠になったわけでもなん
 でもなく、一つ一つの実績・作品が社会的に有意義であると認
 められた結果に過ぎないことは明白である。そんな経験の積み
 重ね/裏付けの下の判断であれば、ある程度信用が出来るのか
 もしれない。

 全ては「かもしれない」レベルの記述に過ぎない。しかし、正
 解が明確でない以上、仮説を立てるしかない。

 設計者は設計者毎に考えが違い、お施主様もお施主様毎に考え
 が違う。そんな中で街並みは更新され、増殖し、新陳代謝を繰
 り返すのである。

 総論を論じる暇もなく、各住居や建物は其々の理論や思想/思
 考によって展開される。これが現実である。基本的な都市計画
 は確かにあるとしても、それを創ったのは設計者でもなんでも
 ない。ルールは必要だし、都市計画に文句を言うつもりもサラ
 サラない。

 だとすれば、設計者自らがルールを乗越えたマナーの下で設計
 を進めていくべきなのだと思う。

 ルールを乗越えるとは、ルールを破るという意味では勿論ない。
 ルールに則りつつ、良質な空間なり景観なりを創出していくこ
 とで、ルールのあり方を考え直す契機をつくるというような意
 味である。

 以前のコラムにも書いたことだが、建築は社会(ルール)を変
 えられると何かの本でも書いてあった。しかし、ルールありき
 で、それさえ守れば文句ないよね?的な発想であっては、いつ
 まで経っても社会など変わらないと思うのである。

 設計者は、言うまでもなく、設計のプロである。社会に対する
 責任も少なからず大きいことは間違いない。

 しかし、その「設計者」という枠に捉われるのは、いかがなも
 のか?と最近思いはじめた。

 設計者だから設計をするのは当たり前である。しかし、その枠
 内に自分を閉じ込める必要なんて、コレっぽちもない筈である。

 とある巨匠(建築家)も言っている。「同じ人生、どう転んだ
 って大した違いは、ない。であれば、やりたい道を進んだ方が
 よい。」と。

 その建築家の妄信者でもなんでもないが、そう思う。

 それが「社会のためになる」のであれば、進む価値はある。結
 果がどうであれ。

 そんな仕組みをデザインしたい。具体的なことは書かないが。
 設計者という枠を越えて、仕組みをデザインすることもまた、
 設計であると今は思っている。
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 ■編集後記

 デザインの領域に境目などはないと思っております。

 領域を区切ってしまうのは、その人個人の頭の中に過ぎない

 のだと思います。国境のように。または県境のように。

 いや、国境や県境は実際に存在するのですが、それは無意識

 に通過出来るレベルでもあります。

 可能性を広げるのも狭めるのも自分次第。であれば、広げる

 だけ広げてみた方がよいです。よね?

コラム | by muranishi | comments(0)

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