■前回コラムの編集後記で、「次回はもう少し身近な題材で
話を進めたい」というニュアンスのことを書きました。
んが、今回は身近なような違うような・・・そんな内容に
なってしまいます。
ですので、今回は(も?)読み飛ばすという一つの選択肢も
ございます。
でも読めば結構面白いかもですよ~。いや、わかりませんが。
それではどうぞおたのしみください。
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■設計者にとっての設計とは?
今回は、いわゆる建築家や設計者にとっての設計とは何かを交
えて、ある一つの目的を考察してみたい。
ある一つの目的は追々明らかにする。
私達は、設計事務所を運営する設計者である。現在は主に住宅
や店舗の設計を手掛けている。
「設計」と一言で言っても、意匠や構造・設備などといった色
々な分野が存在することは、以前のコラムでも触れた通りであ
る。
要するに一言では説明が出来ないのだが、最終的にはお施主様
のご要望を汲み取り、発案し、法規制やご予算などに照らし合
わせて図面化し、見積りを査定し、着工と共に現場監理を行い、
色や質感を確認し、最終的な空間へと誘う役割を主に担う。そ
こにどんな空間が出現するか、どんな仕掛けが施されていて、
どのような効果をもたらすのか。それは望まれていることか、
それはご予算内で納められることか、光はどこから射し、風は
どう抜けるのか。そこに新たな空間体験が待っているのか、新
たな空間概念を持っているのか。などなど多角的な側面から一
つの実体(空間)を検証し、収斂していくことが設計であると
言えるかもしれない。その他諸々付け加えるべき事項は多々あ
るだろうが、概ねそのようなイメージである。
住宅や店舗規模の場合、相対する相手は主にお施主様やお店の
スタッフ。納得されない事項は実現は勿論出来ない。これが、
公共建築ともなれば、その相手の数は一気に膨れ上がり、意見
の集約なり整理を一つのカタチに落とし込んでいくことは、か
なり困難を極めることが容易に想像出来る。
しかし、そういった作業を通過しない限り、一つの空間は出来
上がらない。なぜなら、建築とは設計者の私有物ではなく、時
にお施主様の、そして時に公共/社会の財産であるからである。
10人の設計者が居れば、10通りの回答が出てくる。しかし、
だからといって一つの敷地に10軒を建てることはなく、最も
優れた1軒だけが、この世に実体を伴って出現する。
ここで、最も優れた1軒を抽出するのが大変なことも容易に想
像がつく。同じ設計事務所の内部でさえ、たった1案を考える
/提案するのに、その後ろには何十もの廃案が散らばっている
という現実を知っているので。さらにそこからの抽出は、W杯
の優勝国を決めるが如く、熱を帯びるのだと思う。
お施主様の望む空間もまた、10人居れば10通りの理想があ
る。その意図に共感し、そのイメージを具現化していくのも設
計者の役割であることは間違いない。設計者がどんな理想や理
念を持っていようが、そこに住みたい/そこを利用したいと思
わない限り、全てはアンビルドと化していく。しかし、何の理
想や理念を持たず、全てお施主様任せ的な創り方は、あまり好
ましくないように思える。これは設計者のエゴにも繋がるので、
非常に危険な発言であることは自覚しているのだが、無計画に
無自覚に街が繁殖していくことがあまり好ましいとは思わない
という意味である。
しかし、その設計者の理想・理念が本当に正しいのか。ただの
嗜好レベルではないのか。といったポイントを判断するのは、
非常に難しい。というか、無理かもしれない。
ある意味大御所/巨匠になれば、政治的な発言力も持ち合わさ
れ、その建築家の思惑/思想/理念は実を結ぶ可能性が高くな
るかもしれない。これは、巨匠になる力量を備えているからこ
そ可能なのであって、誰もいきなり巨匠になったわけでもなん
でもなく、一つ一つの実績・作品が社会的に有意義であると認
められた結果に過ぎないことは明白である。そんな経験の積み
重ね/裏付けの下の判断であれば、ある程度信用が出来るのか
もしれない。
全ては「かもしれない」レベルの記述に過ぎない。しかし、正
解が明確でない以上、仮説を立てるしかない。
設計者は設計者毎に考えが違い、お施主様もお施主様毎に考え
が違う。そんな中で街並みは更新され、増殖し、新陳代謝を繰
り返すのである。
総論を論じる暇もなく、各住居や建物は其々の理論や思想/思
考によって展開される。これが現実である。基本的な都市計画
は確かにあるとしても、それを創ったのは設計者でもなんでも
ない。ルールは必要だし、都市計画に文句を言うつもりもサラ
サラない。
だとすれば、設計者自らがルールを乗越えたマナーの下で設計
を進めていくべきなのだと思う。
ルールを乗越えるとは、ルールを破るという意味では勿論ない。
ルールに則りつつ、良質な空間なり景観なりを創出していくこ
とで、ルールのあり方を考え直す契機をつくるというような意
味である。
以前のコラムにも書いたことだが、建築は社会(ルール)を変
えられると何かの本でも書いてあった。しかし、ルールありき
で、それさえ守れば文句ないよね?的な発想であっては、いつ
まで経っても社会など変わらないと思うのである。
設計者は、言うまでもなく、設計のプロである。社会に対する
責任も少なからず大きいことは間違いない。
しかし、その「設計者」という枠に捉われるのは、いかがなも
のか?と最近思いはじめた。
設計者だから設計をするのは当たり前である。しかし、その枠
内に自分を閉じ込める必要なんて、コレっぽちもない筈である。
とある巨匠(建築家)も言っている。「同じ人生、どう転んだ
って大した違いは、ない。であれば、やりたい道を進んだ方が
よい。」と。
その建築家の妄信者でもなんでもないが、そう思う。
それが「社会のためになる」のであれば、進む価値はある。結
果がどうであれ。
そんな仕組みをデザインしたい。具体的なことは書かないが。
設計者という枠を越えて、仕組みをデザインすることもまた、
設計であると今は思っている。
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■編集後記
デザインの領域に境目などはないと思っております。
領域を区切ってしまうのは、その人個人の頭の中に過ぎない
のだと思います。国境のように。または県境のように。
いや、国境や県境は実際に存在するのですが、それは無意識
に通過出来るレベルでもあります。
可能性を広げるのも狭めるのも自分次第。であれば、広げる
だけ広げてみた方がよいです。よね?
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