■住宅に「エアコン」が当たり前になったのは、ここ2~30年
のことでしょうか?
私が小さい頃には、まだまだ普及率は低かったような気がします。
今回は「快適性」について。
やや近代文明批判?的な感じになりますが、私もドップリ浸かっ
ております。ので、あまり強いことは言えないのですが。。
敢えてひとこと。
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■快適性は何に比例するか?
住宅を設計する時、その建物が存在する地域や敷地の条件をまず
把握することに注力を注ぐ。
日当りが良いのか。騒音レベルは高いのか。見晴らしは良いのか。
見せるべき風景はあるのか。将来的に周辺に高い建物が建つのか。
建てられる地域なのか。街並みは古いのか。新しいのか。隣の家
の窓の位置は?などなど。
上に挙げたものは、主に外的環境。周辺状況。といって良いと思
う。野中の一軒家でもない限り、必ず周辺は、なんらかの形で影
響を及ぼしてくる。そしてこちらの建物も相手/周辺に影響を及
ぼす。
こちらの南は相手にとって北であり、こちらの北は相手にとって
の南なのである。
そんな様々な状況・条件の下、果たして「快適性」とは何なのか。
「自然の風が吹き込む家」と言ったところで、周辺が交通量の多
い幹線道路なら、逆に吹き込まない方が快適なのは容易に想像で
きる。
だから、何が快適なのかは、その建物が位置する状況によって異
なる。
昔は、「夏をもってむねとすべし」と徒然草に記されていたりす
る。これは、「日本」の夏場が如何に蒸し暑いかを記している。
いや「京都」の夏場が如何に蒸し暑いかを記している。
いや、もっと細かく言うと、吉田兼好は恐らく「仁和寺」辺りに
暮らしていたのだから、京都市右京区辺りの夏場を示している。
のかもしれない。
確かに京都の夏は暑い。でも北海道は涼しい。
兼好法師が北海道在住だったなら「冬をむねとすべし」と綴った
に違いない。
かなり話しは横道に入り込んでしまったので、もとに戻す。
「快適性は何に比例するか?」
外的要因によって、快適性を決定する基準要因はかなりの確率で
変化することは、上にも述べたとおりである。
では、内的要因を考えた時、何が見えてくるか。
思うに。
動線の良さ。自分の好きな/落着く色使い。設備機器(エアコン
・食洗機・床暖房・通信類・ウォシュレット等)の充実。プライ
バシー(適度な人の距離)の確保とコミュニティの確保。収納量
の充実。などなど。
。。。設備機器の充実ってマンションや建売りのチラシで良く目
にする謳い文句・宣伝文句じゃないか?
それじゃあ、つまらない。と、ごく個人的に思う。
充実してるに越したことはないのかもしれないけれど、「それだ
け」では味気ない。
多分、空間と空間の繋がり方や、そこに佇んだ時に感じる気配・
肌触り・質感・視線・視覚といった「五感に訴えかけてくる」何か
が、快適性には大きく影響してくるのだと思う。
詩的な、そして私的な意見ではあると思うけれど、物理的・定量
的な基準によるのではなく、感覚的な基準により快適性は変化す
る。
これもまた、正解や回答といったものはない。
そこに住まう人。訪れる人。が長い間、佇んでいたいと思える空
間。そんな空間を設計していきたい。
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■編集後記
数十年前の住宅と比べると、恐らく今の住宅は快適だと思います。
それは、エアコンの普及や床暖房・高気密・高断熱などハードな
環境側面が各種メーカーの研究・努力により、技術が進歩した事
に拠る部分も大きいかと思います。
ただ、その反面「地球温暖化」という地球規模での問題も実は
その快適性の裏に隠されていたりもします。
設備に頼らない生活。それは言うほど簡単なものではありません。
実際夏は暑く。冬は寒い。のが日本です。
四季の移り変わりを、あまり移り変わらない室内から眺める。。
理想ではありますが、正解かどうかは皆さんで判断いただく必要
が含まれています。
「住みやすさ」と「快適性」は必ずしも比例しないかもしれませ
ん。
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